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第3話 奉仕は無限残業ですか?

مؤلف: 夢見叶
last update تاريخ النشر: 2026-01-23 20:11:00

 公正契約大神殿の会議室は、いつも少しだけ寒い。

 窓が高すぎて、外の天気が分からないせいかもしれない。

 長机がコの字に並び、その正面の席に大神官長アグナスが座っている。重そうな金刺繍の祭服、分厚い台帳、几帳面に揃えられた羽ペン。見ているだけで、背筋が勝手に伸びる。

 その両脇には、白髪混じりの古参神官たち。対面側の端っこに、ぽつんと私。肩書だけは立派な聖女は、今日も会議室の隅で空気を読みながら座っている。

(……できれば、執務室で溜まっている書類を片づけたいんだけど)

 心の中で弱い抗議をしてみても、鐘は鳴らない。代わりに、別の声が返ってきた。

《本日は神殿幹部会議、「奉仕契約」草案の見直しについて、ですね》

(実況中継ありがとうございます、女神様)

《大事な議題ですよ? だってこれ、聖女様の残業時間にも直結しますから》

 そこは笑いごとではない。

「それでは、本日の議題に移ろう」

 アグナスが低い声で告げると、会議室の空気がきゅっと引き締まった。

 若い書記神官が、緊張で肩をこわばらせながら立ち上がる。手には、新しい奉仕契約草案の束。

「……失礼いたします。では、草案を読み上げます。

 第1条。聖職者は、神と民に仕える者として、その身と時を惜しみなく捧げること。

 第2条。聖職者は、祈りと祝福をもって、人々の平穏と繁栄に寄与すること。

 第3条。聖職者は、信仰と奉仕の模範として、自ら進んで公的務めに当たること」

 一見、きれいな言葉ばかりだ。

 ここだけ切り取れば、反対する理由なんてどこにもない。

(問題は、だいたいその後ろなんだけどね)

「続けます。第4条。聖職者は、可能な範囲で奉仕活動に従事するものとする」

 その一文が読み上げられた瞬間、胸のあたりで何かがぴくりと引っかかった。

(出た、「可能な範囲」)

 曖昧で、責任の所在がどこにあるのか分からない言葉。

 前の世界の就業規則でも、さんざん見た単語だ。

《ふむ。「可能な範囲」ですか》

(女神様、この言い方、世界契約的にはどうなんです?)

《ログで見る限り、こういう文言は、だいたい「不可能になるまでやらせる」の意味に運用されていますね》

(ですよね)

 心の中で、女神とだけため息を共有する。

「素晴らしい文言ですな」

 古参神官の一人が、感極まったように手を叩いた。

 白い眉を吊り上げて、どこか誇らしげに言う。

「我ら聖職者の務めは、まさしく奉仕。その上に『可能な範囲で』などとつける必要は、本来ないくらいですぞ」

「左様。むしろ、奉仕に上限などあってはならん。神に身を捧げる者が、自らの都合を前に出してどうするのです」

 うんうん、と他の年配神官たちも頷いている。

(上限がないって、つまり残業代も上限なしってことだったなあ……前の世界では)

 遠い目になりかけて、慌てて意識を戻す。

 ここで余計なことを思い出している場合ではない。

 ふと視線を動かすと、壁際で控えている若い神官見習いが目に入った。

 淡い金髪をひとつに結び、緊張で指先をもじもじさせている少女だ。手にした水差しが、小さく震えている。

(……あの子、昨日も遅くまで奉仕活動の報告書を運ばされていたはずだけど)

 視線が合うと、彼女は慌てて会釈して、またうつむいた。

 その仕草だけが、なぜか妙に胸に残る。

「聖女様も、何かご意見はありますかな」

 アグナスの視線が、こちらに穏やかに向けられる。

 断れない種類の問いかけ方だ。

「……草案自体は、とても立派な内容だと思います」

 まずは無難な感想から入る。

 会議室の空気が、少しだけ緩んだ。

「ただ、一つだけ、確認をよろしいでしょうか」

 ここから先は、綱渡りだ。

 私は膝の上で手を組み、言葉を選ぶ。

「『可能な範囲で奉仕活動に従事する』という文言についてです。現場では、夜遅くまで祈祷や相談が続くことも多くて……。聖職者が倒れてしまえば、奉仕も祈りも続けられません。長く神と民に仕えるためにも、『健康を害さない範囲で』といった言葉を、どこかに加えていただくことはできないでしょうか」

 一瞬、空気が止まる。

《出ましたね、「健康を害さない範囲で」》

(女神様、実況しないでください。今ちょっと手汗がすごいんです)

 心の裏側で小声に返しながら、表情だけは穏やかなまま、アグナスを見る。

 大神官長は、ふっと目を細めた。

「……聖女様は、本当にお優しい」

 来た。褒め言葉の前振りだ。

「神殿の仲間たちの健康を思いやる、そのお気持ちは、まさに聖女にふさわしい。しかしですな」

 ゆっくりと言葉を区切りながら、アグナスは続ける。

「我らは神に身を捧げる者。『健康』などという俗な言葉を契約の条文に書き込んでしまっては、信仰心が疑われてしまいかねません」

「左様。休息など、各々が可能な範囲で、神のご加護に委ねればよいのです」

「『可能な範囲で』という言葉自体が、すでに聖職者への最大限の思いやりですぞ」

 古参神官たちが、一斉にアグナスの言葉に乗ってくる。

 そこに悪意はない。ただ、本気でそう信じているだけだ。

(……だから、余計にたちが悪い)

 前の世界でも、「社員の健康を第一に考えています」と笑いながら、誰も就業規則の数字を変えようとしない人たちがいた。

 あのときと同じ種類の笑顔が、今、目の前で並んでいる。

「ご提案は、ありがたく受け止めました」

 アグナスが、まとめるように口を開く。

「しかし、『健康』は条文ではなく、各人の信仰と自制に委ねるのが、これまでの神殿の在り方でした。前例に従い、本草案の文言は、このまま王宮へ提出する案といたしましょう」

「異議なし」

「さすが大神官長」

 賛同の声が、あっさりと上がる。

 誰も、「健康」という単語を拾わない。

 握っていた羽ペンに、じわりとインクがにじんだ。

(……今、ここで机を叩いたら、「信仰心の足りない聖女」ってラベルを貼られるだけ)

 それが分かっているから、笑顔を崩すことはできない。

「では、本件は以上とし、次の議題に移る」

 会議は、何事もなかったかのように進んでいった。

◆

 やがて全ての議題が片づき、重い扉が閉まる音が背中に刺さる。

 会議室を出た瞬間、私は大きく息を吐いた。

 廊下の空気は、会議室より少しだけ暖かい。

 高い窓から射し込む光がまぶしくて、思わず目を細める。

(……疲れた)

 朝から祈祷に相談にと走り回ってきた身体に、今さらどっと重さが戻ってきた。

 ここからが、ようやく「昼前」だという事実は、なるべく考えないことにする。

 ふと、廊下の片隅にある掲示板が目に入った。

 紙が何枚も重なって貼られ、その一角に、新しいお知らせが増えている。

「奉仕契約草案・聖職者向け説明会のお知らせ」

 大きく印刷された奉仕の文字を見た瞬間、別の活字の並びが、脳裏に重なった。

 ──裁量労働制について。

 ──みなし残業〇時間。

 ──自己研鑽は労働時間に含まれません。

 白い紙に、黒い文字。

 ただの事務的な説明文なのに、読み返すたびに胃が痛くなった紙束。

(裁量も、奉仕も。書類の上では、どちらもきれいな言葉なのに)

 掲示板の紙から目を離し、そっと息を吐いたそのときだった。

「聖女様ーっ!」

 廊下の向こうから、書類の束を抱えた影が、全力で走ってくる。

 茶色の髪がふわふわと揺れているので、誰かはすぐ分かった。

「ティオ? 廊下は走らない約束でしょう」

「す、すみません! でも、これだけは急ぎで……!」

 息を切らしながら、ティオが書類を差し出してくる。

「午後の相談予約表が届きました!」

 受け取った紙には、びっしりと名前と案件が並んでいた。

 祈祷、相談、調停、視察同行。余白という概念は、どこかに転生してしまったらしい。

《本日の午後も、稼働時間フルコースですね》

(女神様、そこは黙っていてください)

 私は一瞬だけ天井を見上げてから、苦笑いで紙束を抱え直した。

「……なるほど。今日も『可能な範囲で』残業ですね」

 ティオが、きょとんと目を瞬かせる。

「か、可能な……?」

「なんでもないわ。午後も頑張りましょう」

 自分に言い聞かせるみたいにそう告げて、私は聖女執務室の方へ歩き出した。

 このときの私は、まだ知らなかった。

 その「可能な範囲」が、どこまで削られていくのかを。

 三年後、神前の祭壇の前で、「この契約を継続するつもりはありません」と口にする日までの道のりを、まだ具体的には想像できずにいた。

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  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第21話 聖女業務、女神による稼働停止宣言

     公正契約大神殿の大聖堂は、どう見ても巨大な契約書だ。 柱にも天井にも条文が刻まれ、その真ん中で私だけが、生身のまま立っている。(やばい、立ったまま寝る……) 昨夜から祈願と相談と書類確認を詰め込まれ、仮眠もろくに取れていない。 そこへ「どうしても今日でないと困るんです」という有力貴族の結婚式がねじ込まれて、私の稼働ログは朝から真っ赤だった。「聖女リディア様、準備を」 補助神官の声。少し後ろでは、若手書記官ティオが紙束を握りしめて震えている。「し、聖女様……式のあとに『予定外祈願』が3件……」「聞かなかったことにしようか。今は目の前の式だけ」「す、すみません……!」 祭壇の前には新郎新婦、客席にはぎっしりと上流階級。 その視線を感じながら、私は深呼吸をした。《本日の稼働時間、すでに推奨上限の1.5倍ですねえ》 頭の奥で、軽い声が笑う。 公正契約の女神。私の庇護神であり、この世界で一番ログにうるさい存在だ。(女神様、実況は後にしてください)《いえいえ、ログは積み重ねてなんぼですから》 儀式はクライマックスへ進む。「では、公正契約の女神の祝福を——」 大神官長アグナスの声に合わせ、私は両手を掲げた。 契約書レイアウトの魔法陣が光を増し、新郎新婦の足元から淡い金色の光が立ち上がる。(ここでコケたら、式が台無し……) 焦りと眠気で視界が揺れた、その瞬間。《はい、そこまで》 女神の声が、いつもより低く落ちた。《これ以上ログを積んだら、あなたも世界契約もまとめて過労死コースなので、止めます》(世界契約まで過労死は嫌ですね……)《ですよね。では、強制停止》 祝福の光が「ブツッ」

  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第20話 橋を渡る人

     西の空が赤紫に沈みかけていた。 契約大橋の石畳には、紙吹雪と花びらの残骸が、湿った色のまま張りついている。さっきまで祝祭だった場所が、今は片付け途中の舞台みたいに静かだ。 遠くの広場からは、まだ人々の声が風に乗って届いてくる。 断片的な噂と、屋台を畳む音が、まだ風に乗って届く。今日一日で「契約」という単語を何度聞いたか分からない。 橋のたもとに立つ私の隣で、低い声がする。「本日の移動経路は、簡易支援契約第3条に基づき、私と護衛隊がご一緒します」 礼服から簡素な外套に着替えたセルジュ様が、いつもの事務的な口調で告げた。少し後ろには、女性騎士と平服の護衛が数名。「……私を一人にしない、条文でしたね」 さっき署名したばかりの文言を、私は口の中でなぞる。 聖女の安全確保のため、原則として単独移動を禁止する。 最低限と呼ぶには、少しばかり手厚い内容だ。(最低限の意味、やっぱりおかしい) 心の中だけでツッコミを入れる。《リディア、稼働状況の確認です》 女神様の声が頭の奥に降ってきた。《本日の精神負荷、平常時比でおよそ5倍。歩行可能ですが、急なイベントは控えましょう》「診断がざっくりしています」 足元を見ると、石畳の一部に古い文字が刻まれている。国と神殿の条文が、何十年も前からここにあるのだろう。夕焼けを受けて、その一行一行がうっすらと光っていた。《契約大橋は、もともと国と神殿の約束を刻んだ場所です。 最近は、個人のログも、少しずつここを通るようになりましたが》「私の三年間分のログも、今日ここを通ったんでしょうか」《ええ。ブラック寄りのやつが、どっさり》 背筋に、ひやりとしたものが走る。 国のため。王家のため。誰かのため。 その言葉で塗りつぶしてきた三年間が、光の粒になって橋の下へ流れていったところを想像してしまう。「……行きましょう」

  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第6話 タイムカードのない三年間

     あの夜から三年分のログが、静かに、でも容赦なく積み上がっていった。《聖女様の稼働ログ、現在一〇九五日連続稼働ですね。記録的です》(記録って、本来はうれしい方向で更新したいんだけど) 頭の中で女神様にツッコミを返しながら、私は机の予定表をめくる。 この世界にはタイムカードはない。その代わり、公正契約の女神が、私の働いた時間と案件を、黙々とログに変えていく。 日付がめくられるたびに、その裏で、見えない稼働ログの束が厚くなっていく。 季節と案件だけが、静かに入れ替わる。 春には祭祀の準備と

  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第5話 お前を愛するつもりはない

     王宮の大広間の扉が、背後で重く閉まった。 さっきまで耳を満たしていた楽の音も拍手も、石造りの回廊に一歩踏み出した途端、遠い別世界みたいに薄れていく。残るのは、私と隣を歩く王太子レオン殿下の足音だけだ。「今日はご苦労だった、聖女リディア」 殿下は、宴の最中と変わらない、公務用の笑みのまま言った。「陛下や客人の前で、聖女としての役目を果たしてくれて感謝する」「身に余るお言葉です、殿下。本日の婚約発表も、滞りなく済みましたね」 口から出るのは、訓練された模範解答だ。 でも胸の奥では

  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第4話 白い結婚の条件

     王宮の謁見の間は、いつ来ても息が詰まる。 高い天井、真っ赤な絨毯、壁の紋章旗。大神殿の静けさとは違い、ここは「見せるための豪華さ」で満ちていた。 その絨毯の先端、玉座から数歩の位置に、私は立っている。聖女衣装の上に白いマント。「そのままで、聖女様」「ありがとうございます」 微笑んで礼を言いながら、こっそり深呼吸をする。 陛下への拝謁は仕事で何度も経験している。けれど今日は、「私個人の婚約」の話題だ。「グスタフ陛下、ご入場」 侍従の声と共に扉が開き、王と王妃、王太子レオン殿下が

  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第2話 聖女の朝はタイムカードなし

     終電もなければタイムカードもない世界で、私の朝は鐘の音で始まる。 外はまだ夜の色だ。塔の鐘が低く鳴り、冷えた石床が膝に現実的な痛みを返す。女神像の足元でひざまずきながら、私は今日の「案件」を頭の中で並べていた。(今日も死者が出ませんように。変な契約が増えませんように。ついでに、睡眠時間が少しだけ伸びますように)《最後のだけ、だいぶ個人的ですね》 頭の内側で、軽い声が笑う。 公正契約の女神だ。(個人の願いも、契約にしてくれていいんですよ)《「聖女の睡眠時間は最低〇時間保証」ですか。世界契約にするには前例が足りませんね》 そんなやり取りをしながら、私は形式通りの祈りを終えた。

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