Se connecter公正契約大神殿の会議室は、いつも少しだけ寒い。
窓が高すぎて、外の天気が分からないせいかもしれない。長机がコの字に並び、その正面の席に大神官長アグナスが座っている。重そうな金刺繍の祭服、分厚い台帳、几帳面に揃えられた羽ペン。見ているだけで、背筋が勝手に伸びる。
その両脇には、白髪混じりの古参神官たち。対面側の端っこに、ぽつんと私。肩書だけは立派な聖女は、今日も会議室の隅で空気を読みながら座っている。(……できれば、執務室で溜まっている書類を片づけたいんだけど)
心の中で弱い抗議をしてみても、鐘は鳴らない。代わりに、別の声が返ってきた。
《本日は神殿幹部会議、「奉仕契約」草案の見直しについて、ですね》
(実況中継ありがとうございます、女神様) 《大事な議題ですよ? だってこれ、聖女様の残業時間にも直結しますから》そこは笑いごとではない。
「それでは、本日の議題に移ろう」
アグナスが低い声で告げると、会議室の空気がきゅっと引き締まった。
若い書記神官が、緊張で肩をこわばらせながら立ち上がる。手には、新しい奉仕契約草案の束。「……失礼いたします。では、草案を読み上げます。
第1条。聖職者は、神と民に仕える者として、その身と時を惜しみなく捧げること。 第2条。聖職者は、祈りと祝福をもって、人々の平穏と繁栄に寄与すること。 第3条。聖職者は、信仰と奉仕の模範として、自ら進んで公的務めに当たること」一見、きれいな言葉ばかりだ。
ここだけ切り取れば、反対する理由なんてどこにもない。(問題は、だいたいその後ろなんだけどね)
「続けます。第4条。聖職者は、可能な範囲で奉仕活動に従事するものとする」
その一文が読み上げられた瞬間、胸のあたりで何かがぴくりと引っかかった。
(出た、「可能な範囲」)
曖昧で、責任の所在がどこにあるのか分からない言葉。
前の世界の就業規則でも、さんざん見た単語だ。《ふむ。「可能な範囲」ですか》
(女神様、この言い方、世界契約的にはどうなんです?) 《ログで見る限り、こういう文言は、だいたい「不可能になるまでやらせる」の意味に運用されていますね》 (ですよね)心の中で、女神とだけため息を共有する。
「素晴らしい文言ですな」
古参神官の一人が、感極まったように手を叩いた。
白い眉を吊り上げて、どこか誇らしげに言う。「我ら聖職者の務めは、まさしく奉仕。その上に『可能な範囲で』などとつける必要は、本来ないくらいですぞ」
「左様。むしろ、奉仕に上限などあってはならん。神に身を捧げる者が、自らの都合を前に出してどうするのです」うんうん、と他の年配神官たちも頷いている。
(上限がないって、つまり残業代も上限なしってことだったなあ……前の世界では)
遠い目になりかけて、慌てて意識を戻す。
ここで余計なことを思い出している場合ではない。ふと視線を動かすと、壁際で控えている若い神官見習いが目に入った。
淡い金髪をひとつに結び、緊張で指先をもじもじさせている少女だ。手にした水差しが、小さく震えている。(……あの子、昨日も遅くまで奉仕活動の報告書を運ばされていたはずだけど)
視線が合うと、彼女は慌てて会釈して、またうつむいた。
その仕草だけが、なぜか妙に胸に残る。「聖女様も、何かご意見はありますかな」
アグナスの視線が、こちらに穏やかに向けられる。
断れない種類の問いかけ方だ。「……草案自体は、とても立派な内容だと思います」
まずは無難な感想から入る。
会議室の空気が、少しだけ緩んだ。「ただ、一つだけ、確認をよろしいでしょうか」
ここから先は、綱渡りだ。
私は膝の上で手を組み、言葉を選ぶ。「『可能な範囲で奉仕活動に従事する』という文言についてです。現場では、夜遅くまで祈祷や相談が続くことも多くて……。聖職者が倒れてしまえば、奉仕も祈りも続けられません。長く神と民に仕えるためにも、『健康を害さない範囲で』といった言葉を、どこかに加えていただくことはできないでしょうか」
一瞬、空気が止まる。
《出ましたね、「健康を害さない範囲で」》
(女神様、実況しないでください。今ちょっと手汗がすごいんです)心の裏側で小声に返しながら、表情だけは穏やかなまま、アグナスを見る。
大神官長は、ふっと目を細めた。
「……聖女様は、本当にお優しい」
来た。褒め言葉の前振りだ。
「神殿の仲間たちの健康を思いやる、そのお気持ちは、まさに聖女にふさわしい。しかしですな」
ゆっくりと言葉を区切りながら、アグナスは続ける。
「我らは神に身を捧げる者。『健康』などという俗な言葉を契約の条文に書き込んでしまっては、信仰心が疑われてしまいかねません」
「左様。休息など、各々が可能な範囲で、神のご加護に委ねればよいのです」 「『可能な範囲で』という言葉自体が、すでに聖職者への最大限の思いやりですぞ」古参神官たちが、一斉にアグナスの言葉に乗ってくる。
そこに悪意はない。ただ、本気でそう信じているだけだ。(……だから、余計にたちが悪い)
前の世界でも、「社員の健康を第一に考えています」と笑いながら、誰も就業規則の数字を変えようとしない人たちがいた。
あのときと同じ種類の笑顔が、今、目の前で並んでいる。
「ご提案は、ありがたく受け止めました」
アグナスが、まとめるように口を開く。
「しかし、『健康』は条文ではなく、各人の信仰と自制に委ねるのが、これまでの神殿の在り方でした。前例に従い、本草案の文言は、このまま王宮へ提出する案といたしましょう」
「異議なし」
「さすが大神官長」賛同の声が、あっさりと上がる。
誰も、「健康」という単語を拾わない。握っていた羽ペンに、じわりとインクがにじんだ。
(……今、ここで机を叩いたら、「信仰心の足りない聖女」ってラベルを貼られるだけ)
それが分かっているから、笑顔を崩すことはできない。
「では、本件は以上とし、次の議題に移る」
会議は、何事もなかったかのように進んでいった。
◆
やがて全ての議題が片づき、重い扉が閉まる音が背中に刺さる。
会議室を出た瞬間、私は大きく息を吐いた。廊下の空気は、会議室より少しだけ暖かい。
高い窓から射し込む光がまぶしくて、思わず目を細める。(……疲れた)
朝から祈祷に相談にと走り回ってきた身体に、今さらどっと重さが戻ってきた。
ここからが、ようやく「昼前」だという事実は、なるべく考えないことにする。ふと、廊下の片隅にある掲示板が目に入った。
紙が何枚も重なって貼られ、その一角に、新しいお知らせが増えている。「奉仕契約草案・聖職者向け説明会のお知らせ」
大きく印刷された奉仕の文字を見た瞬間、別の活字の並びが、脳裏に重なった。
──裁量労働制について。
──みなし残業〇時間。 ──自己研鑽は労働時間に含まれません。白い紙に、黒い文字。
ただの事務的な説明文なのに、読み返すたびに胃が痛くなった紙束。(裁量も、奉仕も。書類の上では、どちらもきれいな言葉なのに)
掲示板の紙から目を離し、そっと息を吐いたそのときだった。
「聖女様ーっ!」
廊下の向こうから、書類の束を抱えた影が、全力で走ってくる。
茶色の髪がふわふわと揺れているので、誰かはすぐ分かった。「ティオ? 廊下は走らない約束でしょう」
「す、すみません! でも、これだけは急ぎで……!」息を切らしながら、ティオが書類を差し出してくる。
「午後の相談予約表が届きました!」
受け取った紙には、びっしりと名前と案件が並んでいた。
祈祷、相談、調停、視察同行。余白という概念は、どこかに転生してしまったらしい。《本日の午後も、稼働時間フルコースですね》
(女神様、そこは黙っていてください)私は一瞬だけ天井を見上げてから、苦笑いで紙束を抱え直した。
「……なるほど。今日も『可能な範囲で』残業ですね」
ティオが、きょとんと目を瞬かせる。
「か、可能な……?」
「なんでもないわ。午後も頑張りましょう」自分に言い聞かせるみたいにそう告げて、私は聖女執務室の方へ歩き出した。
このときの私は、まだ知らなかった。
その「可能な範囲」が、どこまで削られていくのかを。 三年後、神前の祭壇の前で、「この契約を継続するつもりはありません」と口にする日までの道のりを、まだ具体的には想像できずにいた。公正契約大神殿の会議室は、いつも少しだけ寒い。 窓が高すぎて、外の天気が分からないせいかもしれない。 長机がコの字に並び、その正面の席に大神官長アグナスが座っている。重そうな金刺繍の祭服、分厚い台帳、几帳面に揃えられた羽ペン。見ているだけで、背筋が勝手に伸びる。 その両脇には、白髪混じりの古参神官たち。対面側の端っこに、ぽつんと私。肩書だけは立派な聖女は、今日も会議室の隅で空気を読みながら座っている。(……できれば、執務室で溜まっている書類を片づけたいんだけど) 心の中で弱い抗議をしてみても、鐘は鳴らない。代わりに、別の声が返ってきた。《本日は神殿幹部会議、「奉仕契約」草案の見直しについて、ですね》 (実況中継ありがとうございます、女神様) 《大事な議題ですよ? だってこれ、聖女様の残業時間にも直結しますから》 そこは笑いごとではない。「それでは、本日の議題に移ろう」 アグナスが低い声で告げると、会議室の空気がきゅっと引き締まった。 若い書記神官が、緊張で肩をこわばらせながら立ち上がる。手には、新しい奉仕契約草案の束。「……失礼いたします。では、草案を読み上げます。 第1条。聖職者は、神と民に仕える者として、その身と時を惜しみなく捧げること。 第2条。聖職者は、祈りと祝福をもって、人々の平穏と繁栄に寄与すること。 第3条。聖職者は、信仰と奉仕の模範として、自ら進んで公的務めに当たること」 一見、きれいな言葉ばかりだ。 ここだけ切り取れば、反対する理由なんてどこにもない。(問題は、だいたいその後ろなんだけどね)「続けます。第4条。聖職者は、可能な範囲で奉仕活動に従事するものとする」 その一文が読み上げられた瞬間、胸のあたりで何かがぴくりと引っかかった。(出た、「可能な範囲」) 曖昧で、責任の所在がどこにあるのか分からない言葉。 前の世界の就業規則でも、さんざん見た単語だ。《ふむ。「可能な範囲」ですか》
終電もなければタイムカードもない世界で、私の朝は鐘の音で始まる。 外はまだ夜の色だ。塔の鐘が低く鳴り、冷えた石床が膝に現実的な痛みを返す。女神像の足元でひざまずきながら、私は今日の「案件」を頭の中で並べていた。(今日も死者が出ませんように。変な契約が増えませんように。ついでに、睡眠時間が少しだけ伸びますように)《最後のだけ、だいぶ個人的ですね》 頭の内側で、軽い声が笑う。 公正契約の女神だ。(個人の願いも、契約にしてくれていいんですよ)《「聖女の睡眠時間は最低〇時間保証」ですか。世界契約にするには前例が足りませんね》 そんなやり取りをしながら、私は形式通りの祈りを終えた。 鐘が二度目に鳴る。ここからが、聖女の「勤務時間」だ。 祈祷室を出て廊下を急ぐと、すでに神官たちが書類を抱えて並んでいた。「聖女様、お時間のあるときにこちらの——」「こっちは至急で——」「優先度の高いものから順にお願いします」 笑顔でそう告げながら、私は心の中で勝手に分類する。(命に関わる案件、A。生活直撃がB。見栄と政治はC) 聖女執務室の扉を開けると、紙の山と、その陰から飛び出してくる若手神官が一人。「せ、聖女様、おはようございます!」 茶色の髪を慌てて撫でつけながら、ティオが立ち上がる。契約書庫所属の書記官で、今はほぼ私の専属助手だ。「おはよう、ティオ。朝から元気ね」「い、いえ! その……昨日も、灯りが消えたの、だいぶ遅くて……」「大丈夫よ。前の職場に比べたら、まだマシだから」 口が勝手に、いつもの言い訳をこぼす。「前の……?」「こっちに来る前に、ちょっとね。それより今日の予定表を」 話題を変えて紙を受け取ると、「祈祷・相談・視察・会議」とびっしり並んでいた。(はい、今日もサービス残業コース)《本日の予定件数、昨日より一割増ですね》(神様のくせに、残業予測をしないでください)《稼働時間のログ管理も、契約の一部ですよ》 扉がノックされる。「個別祈願のお客様を、お通ししてもよろしいでしょうか」 そこから先の午前中は、ほぼ3コマ漫画だった。 個別祈願室で貴族夫人の昇進祈願をこなし、隣室で怪我人を治しながら減免申請にサインをし、廊下では「ついでに」と奉仕活動の報告書を抱かされる。椅子と書類と祈りが、切り替わり続ける。《聖女業務、順
公正契約大神殿の天井には、過去の「大案件」の名前が刻まれている。 戦争終結条約、王位継承の調停、神殿と王家の和解。 その一番端に、空いたままの枠が一つ。(……たぶん、あそこに今日の案件が増えるんだろうな) 私は祭壇の前で、他人事みたいに思っていた。 白金の指輪が、左手の薬指でかすかに浮いている。サイズがわずかに合っていなくて、指を動かすたびに、きゅっと皮膚をこすった。《指輪、やっぱり半号大きいですねえ》 頭の内側で、聞き慣れた声が笑う。 公正契約の女神。今日の式の主催者であり、私の上司であり、この世界で一番、条文にうるさい存在。(今、そのツッコミいります? 女神様)《大事ですよ? サイズが合ってない指輪って、だいたいこの案件、最初から微妙ですよってサインですから》(縁起でもないことを、神様が言わないでください) 私は口元だけを上げて、外からは分からないように息を吐いた。 祭壇の背後には、光の板が何枚も重なって浮かんでいる。そこに王太子レオン殿下との婚約契約の条文が、ゆっくりスクロールしていた。「互いの名誉を守ること。王国と神殿の協力関係を維持すること。聖女としての務めを最優先すること……」 中央の神官が、祝詞のような調子で読み上げていく。《はいはい、前置きの綺麗なところですね》(女神様、声、被ってます)《聞こえるのは聖女様だけですから。安心してツッコミどうぞ》(……ツッコまないといけないんですか)《心の健康のためにどうぞ》 そんなやり取りをしているあいだも、式は進んでいく。 高い柱には祈りの絵ではなく、細かな文字が刻み込まれている。壁の装飾も、天井のレリーフも、すべて条文の断片で埋め尽くされていた。(契約に特化した神殿、というか……巨大な契約書ですね、ここ)《褒め言葉として受け取っておきます》 祭壇前の床には、円形の魔法陣ではなく、契約書レイアウトの線が描かれていた。見出しの位置、条文の欄、署名欄。 私と、その隣に立つレオン殿下は、署名欄にあたる場所に立っている。「……本日は、王太子殿下と聖女リディア殿との婚約契約の履行状況についても、神前にて確認し――」 神官が言いかけたところで、隣から低い声が割り込んだ。「形式通りで構わない。その必要はないだろう」 レオン殿下の横顔は、絵画のように整っている。「…







